第5回 93年10月28日(Text by 鈴木哲夫)
1993年10月28日、と言って何があった日であったかすぐに思い出せる人はどれだけいるでしょうか?

2−1。後半ロスタイム。残り3分。右コーナーキックはショートコーナーになり、カバーに入った三浦和良の足をすり抜けるように上がったセンタリングがイラクの選手(オムラム)の頭を経て、まるでスローモーションを見るようなゆっくりした軌跡で日本ゴール右サイドに吸い込まれたその瞬間、日本の94年アメリカW杯の出場が消えました。
日本時間1993年10月28日午前2時20分過ぎ。ドーハのカリファ・スタジアム。・・・そう、あの「ドーハの悲劇」の日です。

あれからもう8年の月日が流れようとしています。このコラムを読んでいる人はほぼ全員がその光景を見た人達であると思いますが、その日付まで正確にはなかなか覚えていないことと思います。何故私が正確に日付と時間を覚えているのか?それには、実は深い訳がありまして・・・。

この日、午前4時30分。茫然自失状態で床に入り、やっとウトウトしかけた頃、隣で寝ていた妻が「お腹が痛い」と私を起こしました。臨月であった妻に陣痛が来たのです。
午前5時、病院にかつぎ込み、病院と家と実家を行き来しながら右往左往していた午後3時10分、次女(亜衣子)が誕生しました。

93年10月28日。それは近代日本サッカー史において最も衝撃的な「ドーハの悲劇」の日でもあり、我が家の次女の誕生日でもあるのです。娘の誕生日が来る度に自分の子供の成長と日本サッカーの成長を比較して見ている自分がいたりします。

この8年、何が変わって、何が変わらなかったのか?

確かに日本のサッカーは格段の進歩を遂げました。W杯にも出場しましたし、今では欧州の中堅チームとも互角以上に戦えます。ひょっとしたら韓国より先にW杯で1勝を挙げられるかもしれない!という期待を抱かせるところまで来ています。当時の日本代表(ラモスやカズ、柱谷、都並達!)と今の代表が試合をしたら、多分10戦中8回は今の代表が勝つ!という予想に反対する人は何人いるでしょうか?
中田(英)に代表される若手もドンドン海外に出ており、それなりの評価も受けるようになっています。
子供達の技術レベルも確実に向上しており、高校選手権などを見ていると、本当に「うまいなぁ〜」と感心する子供達がそこら中にいます。そういった「選手権」でなくとも、例えば地元の中学生のサッカーでも、小学生であっても、以前と比べると「技術」という点からすると長足の進歩が見られます。
サッカーのルールも変わりました。当時はまだ「線審」でしたし、キーパーへのバックパスも許されておりました・・・。

・・・Jリーグが発足した年、1993年。それからの8年という歳月は、日本の「サッカー」を劇的に変えました。しかし、「サッカー環境」はどうなんでしょうか?
当時、川崎市内の少年サッカー場は北見方と中瀬しかありませんでした。これは今も変わっていません。今年やっと東扇島にグランドが出来ましたが、便が悪く、簡単に使える状況とはなっていません。むしろ、北見方などは水害の影響から使えなくなったままの状態となっており、少年サッカーグランドは実質減っているような状況です。
また、等々力陸上競技場はその当時、松村杯の決勝に使われていましたが、Jリーグが始まってからは我々少年サッカーでは何かのイベントと抱き合わせ以外は使えなくなってしまいました。
川崎市に限って言うと、「少年サッカーの環境」はむしろ悪くなったのではないでしょうか?いや、「スポーツ環境」と言ってもいいかもしれません・・・。

「パパ、サッカー行こう!」10月28日で満8歳になる娘が言います。
8年という歳月は人をここまで成長させるとても長い時間なのです。彼女の誕生日が近づく度、ふと考えます。

「変わったこと/変わらないこと」・・・日本サッカーの進歩は、サッカー環境の進歩は、本当に彼女の成長に追いついているのだろうか?と。

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